何故自分に価値がないと証明し続けてしまうのか

考える

自分を価値のないものと考えてしまう、思い込んでしまう人間をこれまでに何人も見た。そして自らもそうであることを踏まえて皆共通していると感じるのは

「人生でこの時くらいは可愛がられていいはず。大切に、一番にされていいはず」

と信じたい幼少期などに、大して大切に扱われなかった(或いはそう感じていた)のが共通点ではないか。
気が付いたらこの世に存在していたというのに存在すら望まれていなかったっぽいとは何事か。自分はかけがえのないものだと思えないまま、大きくなってしまった人間が悲しいことに相当数居るのだ。全部まるごと子供時代に戻し育て直したい。
完璧には程遠い親ではあるがちゃんと人間扱いはするし、悪い時はすごく謝る。いかがでしょうか。小さくなる技術が発明されたら、是非うちの子になってください。うちはカレーが美味しいです。

自分には価値などないと証明したがる人

自分に価値がないと思い込む人間は「やはり自分には価値などなかった」と証明したがる。
友人からの連絡を無視し、その友人が結果他の人と出掛けている事を知ればやはり自分に価値などなかったと一層思い込む。私である必要はほら、ないじゃないのと。お前が無視したってだけだろうに。
不機嫌に振る舞ってみせ、恋人がうんざりし始めれば「ほら!!私のことなんかどうでもいいんじゃない!!」とか言いだす。理由もなく不機嫌な人間を好きな人間などいないだろバカなのか?


バカなんだと思う。だが証明したいのだ。

幼い頃から
「私は可愛くないから、素直じゃないから、いうことを聞かないから、役立たずだから。だから大事にされないんだ。」と思うことで、大切にされないのは仕方がないことなのだと納得してきたのだから。


もしも今更「大切にされるべき存在だった」と気付いてしまったらどうなる?
過去に受けた扱いが理不尽なものであったと、理解してしまうではないか。私は可愛かった。幼かった。素直で元気だった。では何故なの?とその理不尽に気付いてしまったら、とてもじゃないが耐えられそうにない。であれば価値がないと思い続け、証明し続ける事のほうが楽に思える。
証明し続ける為に何をするかといえば、家族や友人などの一緒に居ることを選んでくれた人間を試すような嫌な行いをし「私には価値があるか」を確認し続けるのだ。一番大切にすべき人間を使って過去の傷と向き合ってばかりいる。

子供を持った今、自分のことを信じられるようになった!私には価値があるハッピーラッキー!なんてキラキラした思い直しを出来ているかといえばそんな事はない。
折を見てこの症状は顔を出し、自らの価値を低く見積もったが故のひどい結果を度々受け入れなくてはならない。その度にうんざりする。まだやってんのかと。いい歳こいて何やってんだと。


ある程度歳をとったら、どんな育ち方をしたかなんて喚き散らしたところで言い訳としか受け取ってもらえない。何故ならもう可愛くないからだ。若さ故の愚かさや短絡的な行動はまだ可愛らしいで済む。

そんなめちゃくちゃな。と思うだろうか。だがそうである。
かまってほしくてメソメソ泣いても、頭をよしよしとしてもらえるのは若くて可愛いからだ。歳をとってからもそれしか術を持たずにいたらどうなる。痛々しいことこの上なく、それで寄ってくる奴がいようもんならそいつもろくでもない率100%でどこへ転んでも不幸しかない。


歳をとったら絶望しかないとは言ったが(言ってない。絶望以外もあります)子供を抱きしめることや「大丈夫だよ」と言った自分の声音などの「自分が子供に対して行う事」が幼かった当時の自分にまで響く時がある。


娘が健やかに楽しそうに、安心した様子でいるのを毎日見ていると「あぁほんとだ大丈夫なんだな」と自分ごと信じられるような、そんな気がしてくるのだ。

そんな風に自分を癒やしているだなんてどこまでいっても私は、自分勝手に子供を産んだのだなと考えてしまい辛くもなるが、自分が勝手であると知っているだけいくらもマシってもんではないだろうか。あなたを大切にしなかった人たちは自覚していただろうか。勝手であると。愚かであると。あなたを人間扱いしてきちんと謝っただろうか。

いっとき流行った「嫌われる勇気」を読んだのはもう3年程前だろうか。宗教じみたものは苦手なのだがあの本はまさしくそれで、今でもあんな思考は殆ど宗教だと思っている。
けれど最近になって「人がどう評価しようと、あなたの価値は変動しはしない」という言葉が、度々思い返される。
思い返されるだけで私はまだ愛されたいと思う気持ちは捨てられそうにはなくて、捨てられなくてもいいかなとも思う。
ただ、いじけたり拗ねたり喚いたりする以外の方法で歳をとっていかなければなぁ。

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